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INTERVIEW 業界別起業家インタビュー

ホリプロ 創業者 堀 威夫

若気の至りこそ最大の武器

ホリプロ 創業者 堀 威夫

※下記はベンチャー通信8号(2003年7月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。

―ワゴンマスターズは、大学卒業後も続けたんですか。

堀:いえ、ワゴンマスターズは伝統があって、全員学生じゃないとダメだったんです。だから大学の卒業を前にワゴンマスターズは辞めた。辞めてからは、就職活動をはじめたんです。けど、ちょうどその頃は朝鮮戦争特需が終わった第一次不況。時代は最悪。一流企業も採用を控えていた時期です。僕なんか大学時代に全然勉強もしなかったし、当然会社に入れるわけもない(笑)。ワゴンマスターズも辞めちゃったし、戻るところもない。そこでブラブラしていてもいしょうがないから、自分でバンドを結成したんです。それが「堀威夫とスウィングウェスト」です。でもバンドを続けていくうちに、このままギター弾きで一生を終えるのはどうかと思い始めたんです。ギター弾きが男子一生の仕事とは思えなかった。そこで紆余曲折を経て、芸能プロダクションを立ち上げました。

―最初に立ち上げたのは、東洋企画という会社ですよね。

堀:そうです。でも東洋企画は、社長に据えた知人に乗っ取られてしまいました。まだ自分は若かったし、舞台にも立っていたから、照れもあって、親しかったジャズ喫茶のオーナーに名前だけ社長になってもらったんです。でも、その知人との間に意見の食い違いが出始め、けっきょく僕が追い出されてしまった。ある日、事務所に行くと鍵がかかってて中に入ることもできない。しょうがないから、また自分でゼロからやるしかなかった。そして立ち上げたのが、(有)堀プロダクション。このゴタゴタに懲りて、今度は自分の名前を付けた会社にしました。

―最初はどのようにスタートしたのですか。

堀:まずは東洋企画で僕が手塩にかけて育てたタレントを呼び戻しました。乗っ取った知人はジャズ喫茶のオーナーだから金は唸るほど持ってた。その当時はジャズ喫茶の全盛期でしたから。その知人はタレントの親に手を回した。金にモノを言わせてタレントの引き留めにかかったんです。タレントもみんな若かったから、その中で僕に付いて来なかったタレントもいました。そうやって、何とかホリプロを始めたんです。

―ホリプロがここまで来れた秘訣は何ですか。

堀:運ですね。芸能プロダクションを設立した人は、当時からたくさんいました。でも芸能プロは寿命の短い業態です。生き残る確率よりも挫折する確率の方が非常に高い。でも挫折した人がみんな不真面目だったとか、努力してなかったかというと、そうじゃない。それなりにみんな努力してた。でも人間の努力や技術というのは、お互いに一生懸命やれば、そんなに差は出てきません。どこで差がつくかというと、最後は運だと思うんです。勝利の女神を味方に付けられるかどうか。将棋の世界でも、中原誠さん(永世十段)は「勝利の女神はネアカ人間が好きだ」って言ってるように、どんな勝負の世界でも最後は運だと思いますよ。

―その運を味方に付けるには、どうすればいいのですか。

堀:いい顔をしているかどうかです。いつ何時に何があっても、いい顔が作れるか。どんなに嫌なことがあっても、一晩寝たら、次の日にはいい顔を作って、会社に出る。お通夜の晩みたいな顔をして、勝利の女神が微笑むわけはありません(笑)。なにか事を成そうとしている人の目ってどっか輝いてる。それがいい顔の条件。前日の嫌なことを引きずっているような人は目が死んでる。輝きがない。学生の方にも当てはまると思います。キラキラした目をした人と、いわしの腐ったような目をしてる人。キラキラした目の人は限りなく勝利者に近づくし、腐った目の人は限りなく敗者に近づく。それだけのことです。
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