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INTERVIEW 業界別起業家インタビュー

シダックス 代表取締役会長 志太 勤

燃える男、志太 勤

シダックス 代表取締役会長 志太 勤

※下記はベンチャー通信9号(2003年12月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。

―その後は、どんなビジネスをしたんですか。

志太:次にやったのが、アイスキャンディ事業です。その頃、兄がアイスキャンディ事業を展開していたんです。だから、私もそれを見習って、1956年からアイスキャンディ事業をはじめました。ちょうど22歳の時でした。戦後間もない頃だったので、甘いものが少なかったんです。このアイスキャンディは飛ぶように売れました。原料は水とシロップだけで済んだので、原価率は低かった。だから利幅が大きいわけです。このアイスキャンディ事業は、静岡県東部で一、二位を争うところまで成長しました。  その後、事業をさらに拡大するため、静岡県では最大規模で最新鋭の冷菓工場を建設したんです。ところが、またしても災難が降りかかりました。その冷菓工場が、竣工一年後に社員寮、自宅ともに全焼してしまった。しかも火災保険などには入っていなかったので、工場を建設する時に借りた借金だけが残りました。あれは忘れもしない1958年4月13日のことでした。この時は、さすがに度重なる不運に絶望しました。「これからどう生きていこうか」と呆然と立ち尽くした。漠然とした不安感というより、「オレは運命に見放されているのではないか?」という恐怖感を感じたんです。

―その後、東京に出てきたんですよね。

志太:そうです。私にとって、故郷はもう敗残の地でしかなかった。当時の田舎では事業で失敗した人に、もう一度チャンスを与えるような雰囲気はありませんでした。私は追い立てられるようにして、心機一転、東京に出る覚悟をしたんです。そして、まずは家族を残して上京しました。お金がなかったんで、燃えた工場の跡地に行って、鉄クズを拾い集めて電車賃を捻出した。そうして新宿へと向かったんです。電車の車窓から赤くなった夕日が見えました。その太陽を見て、「志太よ、燃えよ!」と自らを奮い立たせた。その太陽の赤さは、いまでも鮮明なまま、脳裏に残っています。

―東京に出てきた印象はどうでしたか。

志太:新宿駅に降り立った第一印象は、「東京は毎日がお祭りなんだ」ということです。とにかく人が多い。雑踏の中、圧倒されるような人の群れを見て、そう思いました。そんな時、「毎日がお祭りだから、人は有り余るほどいる。この群集の一人一人から、たとえ10円でも稼ぐことができれば、積み重ね式で増えていくことで、100万円にも1000万円にもなる」ということを考えた。「もうこれは東京で商売するしかない。日本一の商売人になるには、東京しかない」。そう決意しました。その日、自宅に帰る電車の中では、事業に対する意欲があふれんばかりに高まってきたんです。早く東京で商売をしたい、そんな想いでした。
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