INTERVIEW 業界別起業家インタビュー
礼儀正しさに勝る攻撃力はなし
GMOインターネット株式会社 代表取締役会長兼社長 熊谷 正寿
36歳の若さで、「日本初の独立系インターネットベンチャー」として店頭公開を果たした熊谷正寿。礼儀作法を重んじ、常に感謝の心を忘れない。自称メモ魔の異名を掲げ、「私は頭が悪いので、忘れないようにメモを取るんです」と謙虚な姿勢。そのメモの数は、数千にも数万にも及ぶという。温和な外見と真面目な性格から、一見すると順風満帆な人生を送ってきたように見える熊谷。しかし、熊谷の青春時代には想像を絶する困難と苦労があった。
※下記はベンチャー通信8号(2003年7月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
―熊谷さんの中学時代の話を聞かせてください。
熊谷:中学の時はほとんど勉強しませんでした。「やればできる」と自惚れてたんですね。中学3年の時に、担任に「国学院大学付属高校に行きたい」と言うと、「絶対無理だ。やれるもんならやってみろ」と大笑いされました。国学院大学付属高校の偏差値は65以上。確かに当時の成績では不可能に思えました。しかし担任の言葉が非常に悔しくて、必死で勉強したんです。そして、受験1ヶ月前には教科書を全て暗記してましたね。
―国学院大学付属高校には合格できたんですか。
熊谷:死ぬ気で勉強した結果、国学院大学付属高校に首席で入学できたんです。入学式では新入生代表のスピーチも任され、国学院大学の学長に「国学院大学に進学しないで、東大に行ってほしい」とまで言われました。しかし2年生になると「やればできる」という慢心からまったく勉強しなくなり、600人中500番まで成績が落ちてしまった。それで学年主任の先生に目を付けられてしまい、結局2年生の夏に高校を中退したんです。
―20歳の頃に結婚をされたそうですが。
熊谷:そうなんです。20歳で結婚して、21歳で子供が生まれました。また当時は通信制の大学にも通っていた。それに加えて、父が経営する会社で働いて学費と生活費を稼いでいました。ですから20代前半は夫、父親、学生、社会人のひとり四役をこなしていたんです。私の父は、「二世後継者」として私を雇っていました。「二世後継者」というと親の七光りで仕事はしないがお金はあるというイメージが強いですが、私の場合は全くの逆。父からは「一番安い給与で一番働いて、他の社員の手本になれ」と言われていた。また「人間は動物とは違う。書物を通じて、人の一生を数時間で疑似体験できる。だから本を読め。生涯勉強しろ」と教わりました。だから、私は少しでも時間があれば勉強しました。いくつもの勉強会にも参加し、ありとあらゆる新聞や本を読み漁った。当時の生活は肉体的にも精神的にも、そして経済的にも非常に辛かったですよ。そんなある日、夜遅くに帰宅すると家内がアルバイト情報誌を片手に泣いてるんです。訳を聞くと「お金が無い。子供を保育所に預けてアルバイトを始めるの」とひと言だけポツンと答えたんです。その時は非常に辛い思いをしましたよ。自分を信じて結婚してくれた女房を泣かせている。それまでの苦労なんか比べものにならないくらい悩みました。
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