INTERVIEW 業界別起業家インタビュー
燃える男、志太 勤
シダックス 代表取締役会長 志太 勤
小さい頃は、野球選手に憧れた。しかし怪我で野球をあきらめ、いちどは自殺まで考える。高校3年生から始めた食堂は、周辺環境の変化により廃業に追い込まれる。やっとのことで立ち上げたアイスキャンディ事業は、工場と自宅の全焼という悲劇に見舞われる。挫折続きの起業家人生。しかし、志太は悲観することなく、地道に努力し続けた。なんとしてでも、日本一の商売人になってやる!その強い信念が彼を支え続けた。失敗にめげることなく、挑み続けた志太勤。その志太の情熱は、いまもなお燃えさかっている。
※下記はベンチャー通信9号(2003年12月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
―志太さんは、どんな少年だったんですか。
志太:ガキ大将でした。野山を駆け回っていましたね。また野球がとても好きで、野球少年でもありました。小学校6年生のときに野球をやり始めて、ずっと野球ばかりをやっていました。高校は野球で有名な静岡県立韮山高校に入学しました。ちょうど私が入学する前の年に、韮山高校は甲子園で優勝したんです。その優勝決定戦は、私も興奮しながらラジオで聞いていました。韮山に凱旋した韮山高校チームを、地元の人たちは熱烈に歓迎した。私も提灯を持ちながら、選手達を祝福しました。すごい憧れを持って、選手を見ていました。高校に入学した私は、迷わず野球部に入部した。一年生の頃は、ひたすら球拾いに明け暮れる毎日。その当時は、「日本一の投手」になることを夢見ていました。だから、厳しい練習もいっこうに苦にはならなかった。そして二年生のときに、晴れてピッチャーでレギュラーになれたんです。スタミナもあったし、球は速かった。時速140キロはあったと思う。 でも、レギュラーになったその年、静岡県の予選大会で右腕に激痛が走ったんです。すぐに急患で病院に運び込まれて、体じゅうの関節にギブスをはめられた。医者からは、「多発性関節炎だ。一生ボールを握ることはできないよ」と一言、告げられました。
―その時は、どんな気持ちだったんですか。
志太:本当にショックだった。野球だけが人生だったのに、もうその野球ができない。まさに人生の絶望を感じた。いっきに目の前が真っ白になりました。もう死んだ方がいいとまで思った。そして、ある日、自殺の名所である熱海の錦ヶ浦海岸に行きました。自然とその場所に足が向いていたんです。私はひどく落ち込んでいたので、フラフラと歩いていったんだと思います。そのまま放っておくと自殺するぞ、と思ったんでしょうか、海岸公園を管理している中年の男性が近づいてきて、私に声をかけたんです。そして、いろいろと私の話を聞いてくれた。その人は、「野球だけが人生じゃない。その野球にかける情熱をほかの分野に向ければ、必ず成功するはずだ。たとえば、商売をやったらどうだろう。事業家になり、日本一の金持ちを目指してみろよ」と言ってくれた。その人の言葉には温かみがあった。とても説得力のある話し方だったんです。その人の話を聞いて、はじめて「野球だけが日本一じゃなくて、商売にも日本一があるんだ」ってことを知りました。よし、商売人になろう。日本一の商売人になってやろう。そう心に誓いました。
―すぐに商売を始めたんですか。
志太:高校3年生の秋に、親戚の西原さんという人から、大衆食堂「大ごたつ」の経営を譲り受けました。西原さんは、食堂の経営をやめて、もっと大きな食堂を新たに展開することになったので、私にその話がきたんです。私は高校に通いながら、その食堂の仕事をしました。食堂は、俗に言う「トラック昼夜食堂」という大衆食堂でした。店は繁盛していて、ひたすら働いた。1日に3,4時間くらいしか寝なかった。でも、その繁盛していた食堂が、廃業に追い込まれたんです。というのも、新しいバイパス道路が開通して、トラックがうちの食堂に寄らなくなったから。こうして、その食堂は旧道に残された廃屋同然になりました。お客さんが全くいない店内、表に出て食堂を見たときの寂しさは、いまも忘れられません。 この経験で、「いくら才覚があっても、いくら働いても、ビジネスの環境が変われば、どうしようもないことがある」ということを学びました。時代の流れを着実につかみ、チャンスをものにしていく。それが大事だと気づいたんです。逆に言えば、時代に逆行すると、どれだけ努力しても成功は難しい。この挫折は、私にとって貴重な財産になりました。
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