INTERVIEW 業界別起業家インタビュー
京都の町工場を年商1000億円超のグローバル企業へ成長させた起業家
「おもしろい」ことを徹底追求すれば世界で勝てる
株式会社堀場製作所 最高顧問 堀場 雅夫
1945年10月、敗戦から2ヵ月後に京都で産声をあげた堀場無線研究所。20歳の京大生だった堀場雅夫氏が立ち上げた。1950年に国産初のガラス電極式pHメーター(トップ画像)を開発。それをきっかけに1953年、堀場製作所を設立。いまや分析・計測機器のトップメーカーとして、世界27ヵ国に拠点をもつ売上高1,000億円超の巨大グループへと発展した。京都から世界市場を制することができた理由はなにか。ニッポンの学生起業家の草分け、堀場氏に聞いた。
※下記はベンチャー通信53号(2013年7月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
―京都生まれのベンチャー、堀場製作所が世界市場を制覇しています。成功の要因を教えてください。
堀場:ニッチな市場を攻め、その分野でNo.1になる。これを徹底してやってきたことです。私たちの製品は、それぞれ全世界での市場規模が数十億円程度といった小さな市場に対応するものばかり。大企業は投資効率が低いので参入してこない。だから、私たちのようなベンチャー企業でもNo.1になれる。そうやって、ひとつの製品で数億円~数十億円程度の市場を制覇。それを積み重ねた結果、トータルで1,000億円を超える売上高になったんです。こういうやり方は、農耕民族の日本人向きだといえます。小さな土地に水田をつくる。そこに稲を植えて、辛抱強く育てて収穫する。小さな水田や畑をあちこちにつくって、狭い国土を有効活用。たくさんの収穫を得る。そんなやり方です。
―どうやってニッチな市場を見つけているのですか。
堀場:お客さんが見つけてくれるんです。きっかけは「こんなモノつくれませんか」という依頼。たとえばハンディタイプの水質検査器(右図参照)です。最初は、水族館から「水槽の水を入れ替える時期を判断するのに、水質を検査する機器がほしい」という依頼があった。それにこたえて製品化したんです。その後、改良を重ねた結果、いまではいろいろな用途に使われています。河川や湖の環境保全のための調査や、食品の鮮度管理のための検査。あるいは小学校の理科の授業でpHを教えるのに使ったり。当社の製品のなかでは、汎用性が高いほうでしょうね。でも、もともとは非常にニッチなニーズにこたえるものだったんです。
―顧客から依頼されるためには、なにが必要でしょう。
堀場:高い技術力です。当社の技術者は全員、自分の得意分野をもち、その領域で最先端を追求しています。その技術力で、お客さんのニーズにこたえた実績をひとつでもつくれば、評判になる。それで、依頼がくるようになるんです。1964年に開発した、自動車の排ガスを測定する装置を例にお話ししましょう。もともと、当社ではヒトの肺機能を測る機械を開発していたんです。当時の日本では肺病が多かったので、その早期発見や治療に貢献しようと。そのころ、自動車の排ガスによる被害が社会問題化した。肺を測定するための技術を応用して、自動車の排ガスを測ることができるんじゃないか。そう通産省(現:経済産業省)から打診されて開発したんです。社会的な関心の高い分野だったから、国内ではじめて製品化した当社の評判があがり、その後の急成長のきっかけになった。だから後になって、まわりの人から「堀場さん、いいところに目をつけたね」なんていわれる。でも、目をつけたわけではないんです。先に技術があって、それを応用しただけ(笑)。
―先に技術があり、その後、なにができるかを考えるわけですね。しかし、「日本のメーカーは技術優先だから、市場ニーズ優先の海外メーカーに負けた」という意見もあります。
堀場:私はそうは思いません。そんな意見をいう人は、市場ニーズありきでヒット商品を生み出した企業だけをみているんです。その陰には、競争に負けた企業がいっぱいある。市場ニーズが明確にある分野には、多くの企業が参入してくる。その激しい競争のなかで成功するのは困難です。それに対して、ニーズがあるかどうかわからないけれど、とにかく特定の分野の技術を高めていく。そういう技術をいくつかもっていれば、そのなかにはニッチな市場でオンリーワンになれるものがある。市場ニーズ優先のやり方より、成功する確率が高いと思います。また、市場ニーズ優先だと、利益があがらないとすぐ撤退してしまう。でも、環境が変わって、10年後にニーズが出てくるかもしれない。撤退せずに続けていれば技術やノウハウを維持でき、ニーズにすぐ対応できるんです。
―具体例を教えてください。
堀場:当社の放射線測定器がそうです。環境中の放射線量を手軽に測定できる機器として、60年前に開発した。でも、当時からずっと、年間100台ぐらいしか売れなかった。60年間、ギリギリ黒字の状態で生産を続けていたんです。そうしたら福島の原発事故が起きて。注文が殺到し、8,000台出荷する月もあった。もっといいことがきっかけで売れれば良かったんですが、事故後の不安を軽減するのに貢献できたと思います。それもひとえに、生産を続けていたからです。
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