INTERVIEW 業界別起業家インタビュー
「宅急便」の生みの親
ヤマト運輸株式会社 元会長 小倉 昌男
今や私たちの生活に欠かせない宅急便。その宅急便を創始したのが小倉昌男だ。父の創業した大和運輸(現ヤマト運輸)が経営危機にさらされた時、小倉は宅急便を考案した。宅急便のスタートには、役員が全員反対。しかし、小倉は「宅急便は絶対に儲かる」と確信していた。そして自分の信念を貫き通した。その後、宅急便の評判は全国に広がり、ヤマト運輸は奇跡的に立ち直る。驚異の復活劇を成し遂げた小倉昌男。小倉昌男とは、一体どんな人物なのだろうか。
※下記はベンチャー通信7号(2003年2月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
―どのような子供時代を過ごされましたか。
小倉:私はたいへん弱虫な子供でした。勉強もスポーツもあまり頑張りませんでした。大学に入っても、戦争に行かなければならなかったので、全く勉強に身が入りませんでしたね。
―戦争を体験して最も印象深かったことは何ですか。
小倉:私が見習士官だった時、何百人分もの炊事場とトイレを2日間で作るように命令されたことは、今でも鮮明に覚えています。もちろん、必要な資材などは用意されているわけもなく、全て自分で見つけなければなりません。それには、さすがに困りました。結局、人に教えてもらったりして、土手に穴を掘り、竹と麦わらで囲いをしてトイレを作り、河原の石を拾ってきてかまどを作りました。これは強烈な体験でしたね。「どんなことでもやればできる。」ということを、身をもって感じました。資材が無いというのは言い訳に過ぎない。無いなら探してくればいいということです。これは起業に関しても同じですね。資材があれば会社を興せるというわけではない。設備なんかなくても、それを作ればいいわけですから。要は、やる気が大切なんです。
―戦後、人口甘味料サッカリンの会社をつくられたそうですが。
小倉:当時は、今の学生のようにアルバイトでお金を稼ぎたくても、そのアルバイト自体がなかった。そこでサッカリンを密造して、後輩にもお金を分けてやりたかったんです。当時は甘いものが無かったので、人口甘味料であるサッカリンは高値でも飛ぶように売れました。わたしは工場まで建てて、たくさんの学生を工員として働かせるまで大きくしました。この経験は、経営の勉強になりましたね。特に金銭関係について多くのことを学んだ。月末の集金の時にお金が無いとどんなにつらいか、キャッシュフローがどれほど大事かを身にしみて感じました。サッカリンは確実にキャッシュが得られるので、その点はまだ楽な商売でしたけれどね。そのように、当時は必要にせまられて否応無しに経営の勉強をしました。だから経営というものを実務経験をしながら独学で覚えていったということです。企業経理の分析も全て独学。また企業が潰れるのは赤字になった時でなく、資金繰りに詰まった時だということも知った。黒字でも資金繰りが上手くいかなかったら、即倒産なんです。なんでも自分でやってみると色々なことが分かってくるもんです。
―その後、父親の会社であるヤマト運輸に入社されてどうでしたか。
小倉:運輸業には非近代的部分があって、なかなか近代的経営に発展しません。それをどうしたらいいか一生懸命考えていました。まずは、お金も大事だけど人も大事だと考え、人を管理する勉強を一生懸命しました。そこで出てきたのが賃金制度。働くモチベーションは非常に大切で、それを働く人にどう持ってもらうかが経営管理の一つの大きな柱です。それを具体的に示すのが賃金制度なんですよね。賃金レベルが高いかどうかということと、人事評価がフェアであるかどうかが大切なんです。そういう賃金についてのことをいろんな本で勉強しました。また、父は古いタイプの経営者で、ああいう経営者にはなりたくないと思っていました。いわば、反面教師ですね。古いタイプの経営者は、理論よりも感覚を重視しますが、感覚を頼りにする経営は危ないんです。やはり、データをちゃんと分析して社員に説明できるようにしないといけません。
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